「なくす」仕事の価値
Wendelin JacoberによるPixabayからの画像
教室長の井口です。
東日本大震災から9年が経ちましたが、福島第一原発では、溶け落ちた核燃料と構造物が混じり合った、高い放射線を放つ「燃料デブリ」がまだ建屋内に残っており、被災当時から今もなお、燃料の状態を安定させるために、水をかける冷却作業が継続されています。
燃料に触れた水は、高い放射性物質を含む「汚染水」となりますが、これに浄化処理を施したものが「処理水」と呼ばれています。原発の敷地内ではこの「処理水」がタンクに貯められていますが、今では1000を超えるタンクが設置されているそうです。ただ、このタンクも、2022年の夏には、敷地面積の限界から置く場所がなくなってしまうと試算されているらしく、この処理水(もしくは汚染水)の処理をめぐる問題が話題となっています。
国はこの溜まった処理水を海洋放出して減らしていく方針で提言を立てましたが、これに対し漁業関係者が反対の声を上げ続けているのです。実際、できる限り汚染物質を取り除いた処理水は、海に流しても安全上のリスクは低いとされており、法律上も問題はないそうですが、とはいえ、一度は完全に「汚染された水」を福島の海に流したとあっては、そこで採れる漁獲品に対する風評被害は免れません。漁業関係者が「断固反対」の立場を取るのは、当然のことと言えます。
その一方で、福島第一原発のいち早い廃炉は誰もが望んでいることだと思います。しかし、スリーマイル島原発(1979年事故発生)の廃炉が未着手であることや、チェルノブイリ原発(1986年事故発生)がその事故処理だけであと100年はかかると言われていることからも、廃炉作業の着手とその完了までの道のりは目も眩むような遠さで、大変困難な事業であることがわかります。
私が驚いたのは、この話題のなかで『廃炉ビジネス』という言葉を聞いたときでした。これほど困難極まりない厄介な「廃炉」をやってくれる「誰か」への需要は確実にあり、かつ長期事業になることから、『廃炉ビジネス』はそれなりの市場規模になるだろうというのです。
人々が必要とする何かを生み出すことが『産業』なのだとしたら、「廃炉」はその逆で、不要なもの、やっかいなものを無くしていく事業です。ただ、こうした「なくしていく」事業は社会にとって絶対的に必要である一方、はたして後続が意欲的に取り組みを継続できるのだろうかと、ふと思ってしまいます。
何かを「うみだす」事業に比べて、「なくしていく」事業というのは、一般的に経歴に依拠せず、汗をかき、手を汚しながら働くイメージがあると思います。「なくしていく」ことを「マイナスのものをゼロにする」と置き換えたときに思い浮かぶ仕事は、例えば清掃、ごみ回収・処理、家事(洗い物や掃除)、育児(生存を脅かすものをなくしていくという意味において)、修繕工事、警察(危険をなくしていく)など、他にも挙げられるものはあると思います。
こうした「なくしていく」事業は、実際のところ「なくしていく」ことで社会や個人にとっての大事なものを守り、それによって人々が安心して「うみだす」仕事ができているにも関わらず、「ないことが平常」とされる社会においては、そういった「なくしていく」仕事は注目されにくく、認識の外側に押しやられ、そのために人々はその存在を実感しにくくなり、ありがたみが感じにくくなっているのではないかと思います。
人から「ありがとう!」と言ってもらえないばかりか、「生産性がない」「汚い」「誰でもできる仕事」などと下に見られるようであっては後に続く人も現れにくく、こうした仕事の持続可能性は低くなり、発展も難しいでしょう。実際、事故原発の廃炉に至っては、まだそのための科学技術が十分に発達していないため、先の見通しも明確に立てられていません。
「なくしていく」事業に対して、もっと光が当てられるべきではないかと思います。そこには、人々が見ないで済ませたいものがたくさんあるので、視聴率や再生回数を稼ぎたいメディアからはあまり相手にされません。ただ、そうした問題を扱っている志あるメディアも現に存在しています。上記の福島第一原発の問題については、「TOKYO SLOW NEWS」というラジオ番組で取り上げられていましたが、これもとても良い番組です。ぜひ聴いてみてください。